日本美術刀剣保存協会和歌山県支部

楽久我喜帖

日本美術刀剣保存協会|和歌山|紀州|

楽久我喜帖

楽久我喜帖

「在銘と無銘」

< 山本 真司 >

早いもので、私が当協会和歌山県支部にお世話になり、今年で十年になります。
ちなみに私は四十八才になりますが、当支部ではまだまだ諸先輩に教わる事ばかりです。
先ず刀剣との出会いはそもそも大学を卒業し、十三年間サラリーマンを経て、脱サラを決意、会社を設立し今年で十二年になります。
設立当初、取引会社の役員さん(当支部会員)が大の愛刀家で刀のいろはを教えて頂き、私も知らず知らずのうちに、日本刀というものに魅了される何かがあったのかもしれません。
会社を立ち上げた早々、仕事もお金も乏しい時に、日本刀剣との出逢いはとても良かったと思います。
それは一つに南紀重国との出逢いが最初だったから特にそう思うのかもしれません。
最初はまだまだ刀の良し悪し、値打ちも無知に等しいものでしたが、姿は一尺三寸足らずでゴリッとした迫力が印象的で中心には「於南紀重国造之」と七字銘の銘がありました。
その平身の脇差を一目見るなり、「私に持って欲しい」と言ったような気がし、また本来、和歌山に在るべきものと思い購入を決意しました。
でもその値段はサラリーマン時代の年収より高かったと思います。
確かに分相応もわきまえず直感のみの買い物でした。
でも私にとっては当時仕事で憂う時も病む時も、私の傍らで力になってくれたものです。
そういう面で、私の中の刀剣というものは、精神性の高いものと位置づけ、同時に刀工の心行きや、長い歴史の中で次々と引き継がれていく所有者は、どんな思いだったのか、思いを馳せらすことが出来る唯一の心の拠り所であることは間違いないです。
それから何年か経て、会社の経営も軌道に乗り出した頃、さらに南紀重国が欲しくなり、いろんな刀屋さんも廻ったものです。
その頃、ある刀屋さんでのことでした。
通常南紀重国ともなれば、店の奥の金庫より出して来たり、またショーケース内に飾られたりしているわけですが、その刀屋さんの店内にどう見ても山積み状態にされていた刀の中に平身の脇差が目にとまりました。
刀身は、蜘蛛の巣状態の錆が廻っていましたが、姿は幅広で寸が延び、反りがついて重ねの厚い造り込みで慶長新刀の特徴を呈し、地鉄は木目に柾が流れ、刃紋は直刃、なにやらよく見ると食い違い刃があり、砂流しがあり、帽子は直ぐに先に掃きかけごく僅かに返る。これは南紀に間違いないと七十%くらいの確信を持ちました。と同時に中心の銘の不安に気が行ったのです。
この店の販売状況からいって期待は薄い、今までになかなかこの世に掘り出しものなどない、ということを身をもって知っていたからです。
期待と不安で中心を開けてみると、生ぶ、浅い栗尻、鑢目は勝手下り、そして何より、目釘孔が大きい、これはご存知の通り、初代南紀は目釘孔に煙草が通ると言われる程大きいのが特徴であります。また何より、一番の不安材料だった銘文であるが、表、裏に何もなく無銘で、その瞬間「よかった」と思いました。もしかしたら店主はこれを初代南紀であることに気づいていないのではと感じる事が出来ました。
しばらく眺めていると、店主が安くするからと勧めてくれて、値段を聞くと三十五万円と言う、私は、しめた、やはり店主は初代南紀とは知らないようだと確信しました。
二つ返事で頂くと心には決めたが、「錆身の無銘の大和のもの、しかも無鑑であるなら半値だったらもらう」と言葉を返すと、何回かのやりとりがあってついに、売ると言ってくれました、なんとも新刀、最上作の初代南紀の脇差を安価で手に入れたものだと思わず腹の中で笑いながら、お金を払い購入した。
急いで家に帰り、初めて買った在銘の南紀重国と並べて比べてみると、長さは一尺二寸九分と、一尺二寸八分と一分しか変わらない。身幅も一寸三分と一寸一分、ほぼ変わらず、中心の鑢目の角度も、正規とあてるとピタリ同じ、ますます正真であると自身がもてました。まず研ぎに出し、本部の保存審査に出しました。
数ヶ月が経ち、結果は保存合格、極みは無銘(南紀重国)と個銘まで付けて頂きました。
自分なりに自身はあったものの、極みは広義で無銘(文珠)くらいであろうともおもっていたので、あの時こそは本部の審査に敬意を表した。
誠に勝手なものであります。
そのうち審査に出した脇差が返ってきました。
研ぎ屋さんからすぐに審査に出したので、刀身が見違える程良くなっていた。
地沸が厚くつき、地景がよく見えた、刀は総体に匂い深く、沸つき砂流しかかり、大きく食い違い匂口明るく冴えていた、重要の脇差と並べても、地鉄の強弱の差は若干であるものの、何ら遜色はない、中心に関しても、生ぶ無銘は何にも変えがたい、偽物ではないと言う証拠に他ならないからです、南紀重国の場合、お倉刀といって、作刀にあたって、すぐ銘を切らず、紀州藩の需要に応じて、銘を切ったと言われているからです。
よって当時は、在銘よりも、無銘の数の方が多かったようです、このことを知り得た上で考えますと、重国は元和七、八年に平身の脇差を数打っている、その時代に戻れば、在銘、無銘などさほど取るに足らないものだったのかもしれません。
しかし四〇〇年近く、経過した現在、銘があるのと無いのとの差が評価として、三〇倍もあり、またこの二振りの脇差の生れは一緒でも、長い年月の間、どこでどうなったのか、片や数奇な運命を辿ったに違いないと思います。。
実際私事でもそうですが、最初に大枚をはたいて買ったから余計に精神性の高い存在だったのかもしれないし、逆に最初に無銘のこの脇差を入手し、次に在銘を手に入れる順序だったら、また何らかの変化が私の仕事や生活にあったのかもしれないと考えると、この二振りの脇差はなにかいとおしく思って、止まないのであります。

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