日本美術刀剣保存協会和歌山県支部

楽久我喜帖

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楽久我喜帖

楽久我喜帖

私と刀剣

< 金澤 公英 >

秋になると、巷の街路樹はいっせいに葉を落とし枝だけになる。
その後、枝の伐採に役場より職人さん達が来るのが、毎年冬の始まりを告げる恒例の行事であったように記憶している。
昭和三十年台の大阪の下町風景でありました。
私たちは、伐採される一本一本の枝を品定め、太さや反りの良い物を持ち帰り、柄の部分を残し皮を剥ぎ、刀の出来上がりである。
まだまだ物のない時代、このような玩具を自分達で作り遊び廻っていた、今では考えられない良き時代であったように思います。
男の子は本能的に武器に憧れるものだと思っていますが、私も例にもれず人一倍、刀・鉄砲等の玩具が大好きで、よく両親にねだった覚えがあります。
確か小学校六年生の頃だったと思いますが、仲の良いクラスメートの祖父が本物の「刀」を所持されていると聞き、懇願して見せて頂いたのが私と刀の初めての出会いでした。
手にとって見て、その重さに驚いたことと、吸い込まれるような美しさは、未だ鮮明に記憶に残っております。
それ以来、いつの日か自分も必ず「刀」を持ちたいと念じ続けておりましたが、初めてやっと手に入れることが出来たのは、今から約十五年前でした。
ずいぶん長い時間を経て、積年の思いをかなえることが出来た時の喜びは、昨日のように忘れることが出来ません。
初めて手に入れた「刀」は、二尺三寸七分の薩摩刀で銘は『(表)波平安行 (裏)天文四年乙未』とあり、比較的温和しい出来でありますが、真面目なものです。
その後、いく振りか手に入れた後に、非常に珍しい肥前刀にめぐり合いました。
銘は肥前国住吉助、長さは二尺一寸六分とやや常寸には足りませんが、反り五分五厘と姿の良い体配をしています。
この「吉助」につきましては、色々な参考書を調べましたが結局捜し出せず、諦め掛けておりましたところ、「刀剣美術」に肥前刀の研究をされている横山学氏の記事が掲載されておりました。
『肥前刀研究に不可欠な資料である年紀を添えた作や、珍しい銘の作品などがございましたら、是非ご一報下さい』(刀剣美術第四九〇号)とあり、恥をしのんで早々に現物を送りましたところ、同氏より早速次のようなご意見を頂くことができました。
時代 正保(一六四四年)前後
目釘孔の位置がこれほど区に近いのは、肥前刀では年代の上がった物に見る傾向。
本作をはじめ、忠吉本家以外の傍の諸工は、多少なりともバラついて一定しない向きもあるが、この孔の距離は例え下げても天和や貞亨(一六八四年)より後へは下げられない。
銘の雰囲気(縦に長い)は、正保・慶安頃までの年代的な傾向。
帽子の焼きに変化が見られるが、この作域は初期の肥前刀が共通して見えている特色。
特に、初代忠吉は帽子に至ってよく沸付き、変化と力強さを信条としているもので、初代忠吉に影響された初期の肥前刀は、すくなからずこの傾向にある。
寛文(一六六一年)頃をすぎると、単調な直ぐに小丸の帽子が多くなる。
系統 この系統については憶測である。
*初代 伊勢大掾吉広 門人
「前」の最初の二つの点と吉の字の「口」の部分が初代吉広の手癖に近い。
*或いは、初代忠広(忠吉)の下職的立場の人物であった可能性も否定できない。理由は前項の「時代」で述べている三点からの判断。
茎 指表の厚みが落ちていることについて。
こうした茎の状態を見た場合、通常であれば表にあった原の銘が卸されて、指裏(太刀銘)に肥前刀工の銘が偽銘されたと見なすものであるが、この「吉助」に関しては善意の解釈が可能だと思われる。
①上身の作風が、肥前刀そのものである。
②表裏とも錆の状態が落ち着いていて、色艶が良い。
③原銘を卸して偽銘を入れるのであれば、もう少し名前の知れた傍肥前の銘を入れるはずである。
④押型拓者の際、指先に来る感触に何ら違和感がない。
何故、指表の厚みが落ちているのかの理由は不明であるが、上記の様な状況から推察して、必ずしも悪い方へ思考を巡らす必要はないものと判断される。茎仕立てが多少雑なのは、作りなれしていない故と思われる。
以上、大変詳しく、かつ判りやすく解説を頂き、以後「刀」に対する考え方や見方がずいぶん変わったように思います。
まだまだ未熟でありますが、趣味として勉強するうちに、如何にこの世界が奥の深いものであるかということが次第に分ってくると共に、名刀を数多く鑑賞していると、いずれは自分も名刀を入手したいという気持ちが強くなるばかりでありますが、思うようにいかないのが世の常だと考え、謙虚に学び、楽しみたいと思います。

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