日本美術刀剣保存協会和歌山県支部

楽久我喜帖

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私と日本刀の出会い

< 中村 純郎 >

学生時代に居合道(流儀は「無双直伝英信流」同好会(現在は出世して体育会系居合道部)に入会して居合を始めたのが、私にとって日本刀との最初の出会いでした。
さて、居合とは、既にご存知の方もおられると思いますが、いわゆる剣道の立会いに対する言葉で、所謂鞘の中から技が始まる武道なのです。
従いまして、本来なら拵え付きの日本刀で練習するのが理想なのですが、日本刀の取扱いを知らない初心者は先ず、鐔付きの木刀に鞘を自分で工夫して作って、型稽古を始めたものです。
私もその一人で、鞘を作るのに水道管のビニールパイプを電熱器で暖めながら柔らかくなったビニールパイプに少しずつ木刀を差し込みながら濡れ雑巾で冷やしつつ、木刀の反りに合わせながら木刀の切先が隠れる長さまで作り、さらに凝り性の私は小尻をつけ、さらに栗型まで作ってカシュー塗料で黒く塗った鞘を作り、下げ緒まで付けて一人悦に入っていました。
そうして日々居合いの型稽古に励んでおりましたところ、半年位経った頃、学園祭の一環として居合道同好会の先輩達(主に三、四回生)が模範演武及び試し斬りを行なうというので、私達一、二回生は試し斬り用の巻き藁作りをやらされたものです。
巻き藁作りは、農家の人から稲刈り後の乾燥した脱穀済みの稲の藁を貰ってきて、一晩水中に浸して翌日に真ん中に三本位の直径一センチ位の女竹を三本入れてその周りに三束か四束の稲藁で包み、三箇所を藁縄で縛ったものです。
それを試し斬り専用の台(これも手作りのもの)に突きたて、重荷袈裟斬りに斬るわけです。
私も先輩が日本刀を貸してくれましたので、生まれて初めて日本刀を握らせて頂き、「斬ってみろ。」といわれたので斬らせてもらったわけですが、今から思い出しても何ともみっともない結果に終わった次第です。
何故なら、何とか半分位までは力まかせに切り込んだのですが、そこで刀が止まってまさに抜き差しならぬ状態に陥り、醜態を曝けてしまいました。
基本の素振りが完璧に出来ていない証拠でした。
しかし、その後さらに修練を積んだ結果、翌年の同時期に再度挑戦させて貰った時には手に何の衝撃もなく、素振りしている時と全く変わらない感触で巻き藁を袈裟斬りに一刀両断することが出来ました。
やはり「素振りが三年初伝の腕」といわれるように如何に素振りの修練が大切であるか身をもって体験した次第です。
その後、型稽古を続けていくにつれて、やはり先輩達のように本物の日本刀を使って型稽古をしたくなり、ことある毎に様々の理由をつけて、日本刀を買ってくれるよう父親に頼み込みましたが、「学生の分際で贅沢云うな!」の一点張りで全く相手にしてくれませんでした。
その当時(昭和四十五年頃)和歌山市に確か「桜井」という骨董屋さんがあって、そこにかの有名な「水心子正秀」の在銘刀(二尺三寸弱)が十万円で売りに出ていたことがあり、何かと理由をつけて父親を連れて行き、店の人が「不要の場合、二割弱で引き取る」とまで言ってくれたのですが、結果はやはり無駄足に終わりました。
そこで、考えついたのが、叔母(お袋の妹)の嫁ぎ先の家に義理の叔父の父親が戦争中に軍刀といて持っていたという日本刀があるという情報を得て、勇躍交渉に出かけた次第です。
叔母の子供達(つまり私の従弟達)とは結構仲が良く、一緒によく遊んであげていた仲なので、クラブ活動で居合同好会に入っていて、本物の日本刀が必要である理由を懇々と説明して、始めは頑なに拒んでいた義理の叔父をようやく説き伏せて、何とかその刀を借り受けることに成功しました。
しかし、困ったことに警察等に発覚するのを恐れて、その刀は天井裏に隠されており、終戦後、一度も出したことがないとのことで、錆びて使い物にならないかもしれないとのことでした。
しかしながら、天井裏から出してみると、隠す直前に鞘の中にグリースを詰め込んで保存していたのが功を奏して、グリースは完全に蒸発していましたが、刀は油錆で少し曇っていたものの全く赤錆はありませんでした。
ただ、そのような理由で登録許可証がついておらず、先輩の祖父が以前警察署長をしていた関係で発見届や登録審査の手続きをパスして、やっと正々堂々と所持できるようになった次第です。
なお、その刀は生ぶ在銘で銘は「信濃大掾藤原忠国」と見事な字で刻まれていました。
しかし、その刀は、後ほど詳しく述べますが、残念なことに偽銘でした。
それはさておき、その刀は将校クラスの立派な軍刀拵えに入っていましたので、当時二条駅の西側に東映の時代劇用の拵えを専門に作っておられた森さんという方を或る人を介して紹介して頂き、その方に軍刀拵えには「つなぎ」を作ってもらい、新たに居合用として、柄と鞘を新調してようやく本物の日本刀で型稽古が出来るようになった次第です。
さて、その刀が偽銘だという理由については、先輩の知り合いに京都の伏見に安藤さんという研師の方がおられて、お伺いする機会があり、その際先輩の刀とともにこの刀の鑑定をお願いしたところ、先輩の刀は確か二尺一寸余りのあまり反りのない無銘の刀でしたが、安藤さんの見立ては何代目かまでは言及されませんでしたが、「河内守国助」とのことで、良い刀だから余り試し斬りなどしないように忠告されましたので、その後、その先輩は二度と試し斬りをしなくなりました。
さて、私が借りていた刀はというと、刃文は綺麗に整った三本杉でしたので、「忠国」にはそのような刃文の刀は皆無だとの理由で、安藤さんの見立ては「陀羅尼勝国」あたりの作ではないかとのことでした。
しかしながら、長さはまさに定寸の二尺三寸五分余、反り六分強、非常にバランスがよく、振りやすい刀で、樋がないにもかかわらず素振りをすると「ひゅうっー。」と鋭い音がして、私自身は大変気に入っていました。
また、銘の彫り方もいかにも堂々としていて、これがまさか偽銘の刀かとその当時は信じられませんでした。
しかし、後になっていろんな刀剣鑑定の本を読んで勉強していくにつれて、さすがに安藤さんの見立ては正しかったと改めて氏の鑑定眼に畏れ入った次第です。
また、別の先輩の使用している刀(真贋のほどはわかりません)は、何と「埋忠明寿」と「肥前国忠吉」の在銘の合作刀でした。
そのような刀を贅沢にも居合刀として使用されているとは私には信じられませんでした。
ただ、以下の話を聞いて納得がいった次第です。
その先輩の家は剣道のある古流派の宗家の家系で、剣道参段、居合道も既に五段錬士まで進んでおり(ちなみに私はというと、四年間で参段までしか取得することが出来ませんでしたが)、さすがに同好会の中では一番の技量の持ち主で演武するときには非常に迫力ありました。
しかも、家にはかなりの数の日本刀を所蔵されており、月に一度は必ず仲の良い同僚とお邪魔してその刀剣類を拝見したり、お母さんの手料理を頂いたり(実は私の方はこっちの方が楽しみだったのですが)したものです。
また、学園祭の同好会で日本刀の展示会を開催する時には、いつも何振りかの刀剣を借りに行ったものです。
また、そのほかにも別の先輩が使用していた刀で記憶に残っているのが、「備前長船長光作」在銘(二尺三寸五分)の古刀です。
この刀は樋入りの刀で、抜きつけや斬り下ろしの時、「ピュッ」という鋭い音がしました。
この先輩も剣道五段、居合道四段の腕前で、その方の演武はまさに、「斬れる居合」そのものでありました。
当時、私は左大文字山の麓の「京都市左京区鹿ヶ谷寺ノ前町」の下宿に住まいしており、下宿の近くに「法念院」という寺院があり、その辺は歴史的風土保存地区に指定されていましたが、そこの竹林には肉薄の試し斬りにはもってこいの真竹が沢山生えており、深夜先輩と同僚の三人で試し斬りに出かけて散々竹を斬りまくった体験をしたのも懐かしい思い出とともに若気の至りと今になって猛省している次第です。
以上、勉強そっちのけで、クラブ活動(居合道)にのめりこんだ私の学生時代でした。
さて、まだまだお話しする事には枚挙に暇がありませんが、これ以上話を続ける程、自分自身で自分の品格を下げることになりますので、この辺りで終わりに致したいと思います。
非常にとりとめのない話ばかりを思い出すままに列挙して、誠にお恥ずかしい限りですが、以上が私の日本刀との最初の出会いであります。

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