楽久我喜帖
私の錆びた頭の研ぎ直し”
・・・ご指導を仰いだ先輩諸兄に感謝・・・
< 森下 博 >
私が日本刀に興味を持ち始めたのは、三十年前の事でした。
無銘の脇差を手に入れた事が切っ掛けとなって、最初の頃は刀の手入方法、イロハから教わりましたが、時折油を拭うのを忘れていきなり打粉を打ったために肝心の粉が油が染みこんで出なくなったり、或いはそのまま汚れた布で擦ってしまったがため、研ぎ上げたばかりの刀がヒケだらけになってしまったと言う苦い経験があります。
当時は刀剣に関する勉強をするなどという考えは毛頭なく、当然のこと乍ら刀剣書籍も求めず、せっかく手に入れた刀も三年余り箪笥の中で眠らすことになりました。
気付いた時には、もう既に錆があちこちに回っている状態でした。
先輩に注意されて、再び手入れを始めていると友人から「刀を買わないか?」と話を持ちかけられ、買った刀は白鞘も割れている状態の錆身でした。
その折り、初めて発見届の仕方、登録の方法など一通りの知識を得、更に研ぐように勧められるままに研師の福永先生宅を紹介され、早速持参しました。
先生は仕事中にも拘わらず気さくに手を休め、「まず拝見します」と暫く眺めた後、「少々研究の余地がありますね」と言われました。
それでも自分としては多少の見込みがあるのでは・・・と、一片の望みを持ちつつ郷土の小林隆夫先生に話したところ、「あの方は丁重な言葉で話されるのが、見込みなしと解釈した方がよいですよ」といわれガッカリ、結果は案の定昭和刀でした。
そして、「森下君、お金を紙屑にしては駄目ですよ!もっと勉強してから十分注意して買いなさいよ!」と諭されました。それにも懲りず二度三度と錆刀を漁り廻りました。
福永先生が病気で倒れられた後は高松在住の赤津先生に研をお願いする事にしました。
先生は戦時中に空襲から避難するために私の住む南の紀の川の側、旧麻生津地区に住む叔母様宅に疎開していましたので、町の事に大変詳しく、折ある毎に二人で戦時中の少年時代の話に花を咲かせたものです。
紀北筋に来られた折には必ず工場事務所や自宅へよく立ち寄ってくれ、刀の話をし乍らも錆刀の購入に際しての留意点等について親切に教えてくれたり、時には参考になる書物を持ってきてくれては詳しく説明もしてくれました。
それ以降、私は刀剣鑑賞の基礎知識を得るための勉強を始めた訳です。
又、当時既に堀止のバス整備工場で仕事をしていたため、刀の数寄者の川中氏や赤津先生の自宅とご近所でしたので、よくお二人に教えを乞いました。
刀の出来上がるまでの工程、古地理の勉強、五畿七道、五箇伝の伝承、刀匠の作刀時代、その歴史的背景、古刀・新刀・新々刀の見分け方に加え、刀装具作家の特色等々学んでいくうちに感じたことは、ひとくちに日本刀と呼んでいるがこれ程多くの匠の技の結集した美術品は他に類がないと思います。
材料の調達に始まり、刀匠・研師・鞘師・金工・鐔工・塗師・柄巻師等々に関わる仕事は全てにおいて細微にわたる手作りによる作品です。
我々は作品を手にし色々批判も加えてきましたが、これ等のどれを採っても何一つとして造ることの出来ない自分を改めて考えさせられます。
最近特に私自身の鑑賞に対する姿勢に幾分変化が生じてきたように考えますし、刀を趣味とする近くの友も一人また一人と他界し、語り合う機会が少なくなってきましたので、最近では刀身より刀装具の方に魅力を感じられるようになり、特に女性にもその美が通用するから面白いのではないでしょうか。かつては錆び刀を手に入れ、研上がってくるその間の楽しみしか味わっていなかった私ですが、支部の研究会等へ参加するようになり、改めて今まで山積みにしていた刀剣書を読み漁るようになりました。
しかし、それでも毎月送付されて来る『刀剣美術』誌の隅々まで読むに至らず今日に至っておりますが、更に知識を深める為の努力がまだまだ必要だと痛感する昨今です。
刀剣を生涯の趣味として続けるためにも、会員の皆様方のご指導を切にお願いします。
なお、小生所蔵の刀「肥前国忠廣」と槍「豫州松山住長清」二振の押型をご紹介します。
